先日横浜のショッピングモールに行ったのですが、そこでアメリカ人らしい親子の会話をちょっと小耳にはさみました。
中学生くらいの男の子がズボンを試着していたのですが、父親に向かって、
“It says light gray. But I don’t believe it.”
といっていました。
これを従来のように全訳したらどうなるでしょうか?
「このズボンはライトグレーといってます。しかし私はそれを信じません。」
これではいくらなんでも硬すぎるのでもう少しやわらかくすると、
「これはライトグレーっていってるけど、僕は信じないよ。」
しかし、訳を柔らかくしてみても、本来はしっくりこないのです。
その大きな理由は、英語表現と日本語表現が1対1のように対比できないものが、実はかなり多いからです。
まず、例の会話でいうと、
It says
ズボンが言っている、が直訳ですが日本語にはズボンが話をすることはないので、ズボンがモノを言うなどという表現自体が存在しません。
ですから、いくら日本語に訳して意味をとっても、it says という表現をすぐに理解できないし、この表現がアタマに残ることもありません。
だから、自分で英語で表現する場面でも、it says などという英語では子供でも普通に使う表現発想が一向に身につかないのです。
この例でさらにいうと、
I don’t believe it. という表現も日本語では大げさ過ぎて、ズボンの買い物には使わないでしょう。
この場面を日本語だけで考えたら、違うんじゃない、くらいが I don’t believe it. に相当するでしょう。
ネイティブは、この表現を頻繁につかいますが、「信じる」などという強い信念で言っているわけではないので、日本語との表現の温度差が大きいわけです。
ライトグレーって書いてあるけど、でも違うんじゃない。くらいがこの場面に相当する日本語になるでしょうが、中学生の英語表現をそのまま訳してもなかなかこうはならないでしょう。
いちいち日本語にすべて訳してしまうと、このように英語独特の表現はぜんぜん自分のモノになってこないし、だからいつまでたっても英語理解、それにつづく英語表現力が伸びてこないのです。
日本で売られているほとんどすべての教材が、英語と日本語を対比させて必ず全訳が載っています。だから学習するほうは、必ず英語を一部見て、そこの訳をみる。そしてまた英語の一部を見て、日本語訳をみて、というのを繰り返します。
確かにこうすることで、内容が理解できたような気がします。事実「日本語では」内容が理解できているのです。
そして日本語で理解することができたから「よし、この文章はもう大丈夫。理解できた。」と早合点してしまっているのです。
この早合点がいかに多いことか。
あなたがこのように学習して理解しているのは、「日本語訳」です。英語は全くアタマに入っていないのです。
「いえ、私はちゃんと英語を丸暗記したから英語もアタマに入っています」という人もいるかもしれませんが、出くわす英語すべてを丸暗記していたら、時間がいくらあっても足りません。
言葉というのは、100インプットして1くらいが記憶に残るか残らないかでしょう。あなたが昨日友達と会話したフレーズをそのまますべて覚えているでしょうか? 内容は覚えているでしょうが、フレーズの一語一語を覚えていることはないでしょう。
でも、英語教育では、単語がズラッと書き出されていて、その横に日本語訳がついている。それで、これを丸暗記する、ということを平気であなたに強要しているのです。
確かに、一時的に暗記した内容を覚えているかもしれませんが、それが実際に映画の会話の中で使われていても全く理解できないでしょう。
「日本語訳」としてしか覚えていないので、どのような場面で使う言葉か、どのようなフレーズといっしょに使われることが多いか、を全く理解できないし、推測できないからです。
まとめると次のようになります。
*言葉を記憶にとどめるには、前後の言葉、フレーズとともにアタマに残る
*対訳では、日本語しかアタマに残らない
*丸暗記した言葉に出くわしても、どのような場面で使う言葉か、推測できないため理解できないまま、会話はどんどん先へいってしまう。
実は日本人は英語の「読み書き」もできない。
私たちは曲がりなりにも長年英語を習ってきているのだから「話したり聞いたりする機会」はなかったけれど、「読んだり書いたり」することはできると思っています。
ところがこれは大きな間違いです。もしホントに読んだり書いたりすることができるのならば、日本人のTOEFLなどのスコアはもっと高いはずです。
実は私たちが英語の「読み書きはできる」といっているのは、読み書きができるのではなくて、日本語にうまく変換する能力があるということなのです。つまり、パソコンを使っていて以下にキーボードを早く打って適切な日本語変換をおこなうことができるか、いかに早く電卓をたたいて正確に計算をすることができるか、というたぐいと同じ能力を競って身に付けようとしているだけなのです。