先日シアトルを訪れたとき。
乗ったタクシーの運転手はインド系のもう60くらいのおっさんだった。
空港からタクシーで市内にあるホテルへ。
だんだんと町の中心に近づいているうちに、私たちもだんだんウキウキしてきて、「町がけっこうサンフランシスコみたいだよね。なんかこう、アメリカらしい汚らしさの中にもこざっぱりとしているっていうか・・・」なんて会話をしていた。もち、日本語で。
いきなり運転手のおっさんが、「イエエーーイ、サンフランシスコ」と会話に突っ込みだした。
「そうなんだよ。俺もここに来る前はサンフランシスコでタクシーやってて、そんでホントに似てるんだよ。」と話し出す。
それまで日本語で会話をしていた私たちは、このオッサンが、いきなりだがスムーズに会話に参加してくるんで、ちょっとびっくりした。
日本語もわからないから、話の内容もわかんないはずなのに。
でも、話し好きの人は、結構雰囲気で、話がわかっちゃうみたいなのだ。
典型的なのは、私の母だ。
英語のエの字も知らない。
それなのに、義理の息子(私の義理の弟になる)のロバートとは、英語で会話をする。
(ロバートというのは芸名ではなくて、カナダ人だからこういう名前です、ちなみ
に。)
正確には英語では会話をしていない。けれどもロバートは日本語が話せないにもかか
わらず、あとで、
「おかあさん(かれは母のことをこう呼ぶ。ちなみに私のことを「オニイチャン」と呼ぶ。)が、夏休みに一緒にロッキー山脈に行きたいから休みとれないかなっていって
たよ。2週間くらい行きたいらしい。」
なんか、話が通じているんである。
母の例はちょっと極端すぎる。誰であれ、その場の話が通じてしまうからだ。
もちろん、勘違いを起こすこともある。おなかが一杯という60歳の女性の話を勘違いして、
「あら、おめでたね」といてしまうようなところがないわけでもない。
でも、結構誰とでも話せてしまう性格の人は、ちょっとした集まりなんかでも、自分が話したり聴いたりする機会が、無口のひとより断然多くなるから、
話の要点を推測したり、きっかけを掴んで自分も話したい、なんてずーっとおもってるだろうから、やっぱり、意思疎通が上手にできるようになるみたいだ。
英語でも、イヤイヤやるのよりも、興味をもって、毎日英語に触れている人は、やっぱり上達も早いような気がする。
杓子定規よりも、今日は映画をみて、明日は友達になったアメリカ人と食事、みたいな遊びの中に英語に接する時間をいれると、知らずに英語の勘もできてくる。
話の途中で、「イエエーイ、サンフランシスコーー」と強引に口を挟めるくらいの
図々しさがあれば、英語の上達は間違いなし!